お笑いとしてだけではなく、絵や映画、コメンテーターとしても見事に活躍を続けるビートたけしさん。
そんなビートたけしさんの名言を紹介します。
「成功の秘訣は、
いちばんなりたいものじゃなくて、
その人にとっては二番目か三番目の、
違う仕事に就くこと。
自分にはもっとやりたいことがあるんだけど、
今すぐにそれをできる能力はないから
違うことをやってます。
それぐらい自分を客観的に見られるやつのほうが、
成功する可能性は高い。」
なんとなく、たけしさんっぽくない言葉のような気がしますね。
昔と違い、今はもう「一生涯同じ仕事をする」時代ではなくなってきました。
夢を追いかけてる人、社会に染まりたくな人、自分のやりたいことがある人などはフリーターを選択しています。
しかし、夢を追いかけ、でも夢に溺れない人が、時間はかかっても自分のやりたいことを選択していけるようになるのです。
フリーターという立場の人が多くなってきましたが、夢を持って、自分を客観視した上での選択ならばそれは着実に前へ進んでいるということです。
まだまだ社会の目は冷ややかかもしれませんが、自分の道を見つけた人は、どうか自信を持って進んでいって下さい。
そうなると、夢や目的を持たず、何も考えていない人は耳が痛いかもしれませんが、そんな人に、たけしさんは次の言葉を贈っています。
「夢をもて、目的をもて、やれば出来る。
こんな言葉に騙されるな。
何も無くていいんだ。
人は生まれて、生きて、死ぬ。
これだけでたいしたもんだ」
これはお笑いビッグ3の明石家さんまさんも「生きてるだけで丸儲け」という言葉話残していますね。
さんまさんの言葉の中には、生きてる時は裸で、死ぬときはパンツ一枚はいてれば勝ちというような名言があるのですが、たけしさんは、パンツ一枚さえも無くていいという持論です。
生きて死ぬだけで周囲に「大したものだ」と言われるなんてことは、まずあり得ませんよね。
人間は、他の動物と違い知能が発達しています。
それゆえに、「なぜ生きているのか」という質問を自問自答して生きています。
これは人間がこの世に生きている以上、永遠のテーマかもしれません。
世に出ている歌には、そんな自問自答した歌詞があふれています。
この問いかけは諸刃の剣で、一歩間違えてしまうと「自分は死んだ方が良い生き物なのではないか・・・」と、自分を思い詰めかねません。
しかし、もう一度たけしさんの言葉を見てみましょう。
生きること、死ぬことに我々が抱くような深い意味なんてないのかもしれません。
だから、死のうなんて思わないで、「とりあえず生きてみる」っていう感覚もありなのかもしれません。
それだけで、大したものなのですから。
そう思うと、少し肩の荷が下りませんか?
あなたは今日何分人のためになることをし、何分仕事をしましたか?
何秒人のことを考え、何かに思考を巡らせましたか?
それはとても凄いことなのです。
「変な言い方だけど、
自分のために死んでくれる人間が何人いるよりも、
そいつのためなら命をかけられるって友達が
1人でもいる方が人間としては幸せだと思う。」
とにかく生きてみて、命を懸けられるような友人をたくさん作ってみたら、もはや人生という道がガラッと変わって見えると思います。
生きる以上、何かをしないと退屈で辛いです。
だから、生きるならば、どうせ最後に死があるならば、誰かのために一生懸命になってみましょう。
自分のことは二の次三の次でもいいのです。
命をかけられる友人や恋人を作ることが出来たらば、自然と笑みや涙がこぼれる素敵な人生を歩めるのかしれません。
「井戸を掘っても、
誘い水をしないと水が湧いてこないように
人との会話にも誘い水が必要なのだ。」
これは、簡単なようで結構難しい話かもしれません。
例え「知っていること」でも、ちゃんと聞く姿勢を持って聞いていれば、結果的には自分の知らないことも教えてくれるということです。
それを続けていくと、やがては自分の世界が広がっていくのです。
そのためには、まずは知ったかぶりせずに、何でも話を聞いてみる。
- 経済を学んでいる学生には何を学んでいるのか
- 経済を学んでいる学生には何を学んでいるのか
- 料理人には料理をする際に一番気をつけていること
- 坊さんには世界のこと
- 運転手には車のこと
何でも聞いてみれば良いのです。
年齢は関係ありません。
年下だとしても、その人は「自分とは違う人生を歩んできた人」です。
だから、「自分が経験し得なかったことを経験してきた人」なのです。
それはもう、話を聞くべき対象です。
最大の自己啓発です。
知っていることが増えていくにつれて、それを披露したいと思ってしまうのが人間というもの。
知ったかぶりをせずに・・・・たとえ知っていたとしても、ちゃんと話を聞くことで見聞が広がります。
こういった姿勢が年を重ねてもトップを走り続ける理由なのでしょうね。
「他人への気遣いで大切なのは
話を聞いてやることだ。
人間は歳を取ると
どういうわけかこれが苦手になるらしい。
むしろ
自分の自慢話ばかりしたがるようになる。」
先ほどの言葉と同様、会話のやりとりについて言及した言葉です。
人は知っていることが増えると、それを共有したくなります。
自分の友人や近しい人との会話に盛り上がりたいからかもしれませんが、それに自慢の要素が加わってくると興ざめです。
自分のことをたくさん話すのに、うざったくなる人と、もっと聞きたいと思う人がいまよね。
もっと聞きたい人の話というのは、自分の話を自慢げに話すのではなく、失敗談などを含めながら、決して自分を過大評価して欲しくて話をしているのではないでしょう。
耳を傾けてよく聞いてみて下さい。
この両者の差には明確なものが感じられると思います。
そして、話を聞くことは気づかいにも直結するということです。
たけしさんは礼儀について、細かい作法をいくら知っていても、相手に対する思いやりがないと意味がないということを言っています。
礼儀は一つの形式的なものであり、そこに思いやりがなければ、やる意味がないのかもしれませんね。
「天国や地獄が本当にあるのかも、
神様がいるのかいないのかも、
誰も証明したことがないわけだ。
そういう曖昧な状態なのに、
生きる意味を探せなんてことを言われたら
誰だって迷うに決まっている。」
今の若い人たちって、給料低いし、これじゃリアルに考えて結婚して子供たくさん産むとかムリだって思いを抱え・・・
毎日会社から帰ってきて酒を飲む今年か楽しみがない・・・なんていう状況になり、「あ、何で生きてんだろ」ってついつい思いがちですよね。
そんな中で、「生きる意味」とか言われても正直ピンとこないんですよね。
でも、それを見つけられずにいると、「生きている価値を持っていない」という感覚になり、結果的に自殺をしてしまう人もいるのではないでしょうか。
今の時代、自殺を考えたことがある人は、日本人の4分の1に該当するそうです。
このような曖昧な社会で、仕事が生きる意味だと言い続けた大先輩達が社会の上の層に陣取っています。
今の若者はその価値観を押しつけられ、仕事が「生きる意味」だと勘違いさせられ、会社のために身を捧げているのです。
まるで自分が不幸のどん底にいるという認識を持った人にさしのべられる、宗教の勧誘のようです。
こうして、会社にとっては都合の良い社畜が作り上げられるのです。
自分たちだってよく理解もしていないくせに、何となく家族を守るために仕事をし続けてきた大先輩達。
若者に人生とは何かという話をして、強迫観念を持たせることはやめて下さい。
彼らの生きる道は彼らがつかみ取ります。
年寄りが
「いまの若いのは作法がなってない」と言うのは、
天にツバするのと同じことかもしれない。
今の若者は聞き飽きたでしょう?
「今の若い者は・・・」
「ゆとり世代は・・・」
「だから新入社員は・・・」
くそが!!
たけしさんは、若者が作法を学んだりしないのは、見本になる大人がいないからだと説明しています。
近くに真似したくなるほど所作のかっこいい大人がいたら、その人の所作は自然と思い浮かんでくるでしょう。
そんな経験ありませんか?

「あー、あのときの、あの人の所作はかっこうよかったなあ・・・」
そう思ったら、自然と真似をしてしまうものです。
だから、年をとった人が「今の若いのは・・・」と言うことは、自分が若者に真似をされない程度の人間ということを露呈していることと同じ。
つまり、天につばを吐くことと同じことだと言っているのです。
これは若い世代の言葉を代表して言ってくれた感じがしますね。
「ゆとりだから」、「若い世代は・・・」、もう聞き飽きています。
僕は「お前らはどうなんだ?」と面接のときとかめっちゃ聞きたかったです。
だってその企業に入りたい理由なんて、休みと金と自分のスキルを合算して考えた結果に、妥協できる企業を選択しただけのことでしょう。
そんなの聞かれたって嘘しかつけないわ!
逆に、面接官にその会社に入って学べたことは何か聞きたいわ!
「戦争が終わって、人は自由になった。
だけど、自由になった個人は
自由になった自分に
ものすごい不安を抱いている。」
この言葉はものすごく現代を象徴した言葉だと思います。
選択肢がありすぎる。
情報がありすぎる。
それゆえに、自由ではあるのだけれど、何をしたら良いのかわからなくなってしまっている若者が増えているように思います。
だから、若者はフェイスブックやインスタグラムの「いいね」をほしがり、日々投稿にいそしんでいるのではないでしょうか。
誰でも良いからくっつきたい。
何かの集団の輪に入っていた。
一人で行動する人が希少になってきた印象が強い昨今、会社という集団を辞め、自分の道を突き進む人はよほどの勇気と覚悟がないといけません。
自由になったから選択肢は無数にあるのに、だからこそ一人でいることに大きな不安を抱くようになり、集団から外れる選択は白い目で見られる。
変な狂いかたをしています、今の社会。
「個人の自由を
極端に制限した戦争中の方が
むしろ個人というものを
際立って意識できていたような気がする。」
とても皮肉的なことですよね。
個人の自由を制限した社会よりも、自由を手にした世の中では、先ほども述べたように逆に集団に属したい欲求が高まるのです。
そのため、自分が大きな機械の歯車だとしても、そこにいれば安心感があるのです。
その歯車の代わりはいくらでもいます。
その歯車は永遠に動いている保証はありません。
しかし、自分が特別であるかのように、属している集団が永遠化のように人々は過信し、永遠ではないといち早く気づいて離れる人を非難し、多数派を気取るのです。
社会に部品として組み込まれ、個人が埋没してきている感覚というのは非常によく理解できますね。
「努力すれば、きっとなんとかなるって
そんなわけないだろう。
必死にやってもうまくいくとは限らなくて、
どうにもならないこともある。
それが普通で当たり前だ
ってことの方を教えるのが教育だろう」
努力は決して自分を裏切らない。
努力は決して無駄にはならない。
しかし、努力をすればいいというと、話は全く変わってしまいます。
必死にやっても自分の目標には手が届かないことが、この世界には圧倒的に多いです。
それでも手の届いた一部の人間が、その事例を流ちょうに語ることによって、人々は同じようにしたら手が届くと思い込まされ、一つのビジネスが動いているのです。
もっともっとこの社会の綺麗な部分だけではなくて、きたない部分もきちんと子供に教えていかなければけないということです。
一所懸命やればなんとかなるほど世の中甘くないってことは、一人一人の大人が身をもって実感してきたこと。
それを棚に上げ、「夢は実現する」、「努力は実を結ぶ」という夢物語を子供に言って聞かすのは本当の教育ではないのかもしれません。
もちろん忘れてはならないのが、努力したことは必ず自分のみになると言うことです。
努力をした経験も、努力をして身につけた技術も、です。
このような持論を展開するビートたけしさん。
自分自身のことは才能がある人物だと思っていないのようです。
ではなぜ活躍できるようになれたか・・・それはたけしさんの自論ですが、「トイレ掃除をしたから」だそうです。
トイレ掃除は開運だとか、自分を見つめなおすのにいいとか、一流ビジネスマンは実践しているとか、いろんな話がありますよね。
何かに行き詰ったら、抜け出す一つのツールになるかもしれません。
以上、たけしさんの名言でした。