「火垂るの墓」を見てどのように感じましたか?

一度見て、もう見たくないという思いになってしまい、複数回視聴している人は少ないかもしれません。そのためあまり覚えていないかもしれませんが、「可哀想な兄妹が必死に戦後の時代を生き抜こうとしている」という印象が強いかと思います。

しかし、あの物語はそれだけではない。

それを象徴するようにあの作品を手掛けた高畑監督がインタビューにて語っていることを抜粋しながら違った見方を紹介します。

 
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「火垂るの墓」を見て私が感じた感情は、「可哀想に」という同情の思いでした。

戦争というやむを得ない時代で親を失い、妹を養っていかなければいけない立場になった清太は妹の節子と共に親戚のところに預けられます。

しかし、そこでもまたひどい言葉を浴びせられ、社会と一線を「ひくかのように妹と二人で暮らしていくことを決意しますが、その結果二人とも戦後まもなくして亡くなってしまうという話。

同情してもおかしくはないストーリーのように思えます。

しかし、高畑監督は日本のそうした同情をするという風潮に驚いたそうです。

 

 

「日本の観客に関していえば、清太に同情的な意見が多数ありました。私としてはそれは意外でした。

というのは、作る時に清太は非常に今の子供に似ていると感じました。要するにあの時代でありながらそれなりに貯金があったため、清太はおばさんに頭を下げたり屈服せずにやっていけると思いお金があれば何とかやっていけると感じたのです。

清太が不運だったのは今の子供と違って、お母さんが病弱なために清太は家事が出るのです。そういう自信があったから自分たちでやっていけると感じてしまったんですね。

こういうあり方っていうのは、今の子供に非常に似ていると思います。人々と何とか折り合いをつけて屈辱的であっても頭を下げるときに下げなくてはいけない、妹と生活をしていかなければいけないのですから・・・。」
1999年「高畑勲監督 インタビュー映像」より

 

清太兄妹は、父が残した遺金を握りしめて放浪します。

この額というのは実は結構な額だったそうです。

それと自身が今までおこなってきたことを糧に二人でもやっていけると信じて疑わなかったのです。

その結果、社会を拒絶して、「何とかして生き延びる」ということを大前提にした生活を拒否してしまうのです。

こうした決断をした清太を今の子供と比較しています。

この場合の「今」というのはインタビュー当時の1990年代のことを指して言っていますが、今もそう大差はないと思います。

要は「キレやすい」子供と照らし合わせているのです。インタビューはさらにこう続きます。

 

 

「すぐキレちゃったり・・・そういう子どもと(清太は)似ていると思います。

お金を持ってさえいればコンビニで何でも買える。清太もお金があれば何でもできると勘違いしてしまったんだと思います。

しかし、実際にはあの時代にお金は役に立たなかった。だからああいった悲惨な状況になる。

実際に僕はあの時代の体験者なので知っているのですが、もっともっとつらい状態なのにそれに対して歯を食いしばって我慢をして生き抜いた人はたくさんいました。

もっとひどくいじめられても耐えていました。しかし清太は耐えないでも何とかやっていけると感じた子どもでした。

そこらへんをちゃんと判断して、自分たちだったらやっぱり清太のように耐えられないけど、そうなった場合にはああして死んでしまうという可能性もあったんだなあと見てくれる人がいればよかったんですが、ただ同情的に見る人が日本は多かったです。

ある意味では清太に対する批判的な意見が出ても不思議ではない。

出てほしかった。

あの時にとるべき態度ではなったと見ることができることが大切なのではないかと感じます。」
1999年「高畑勲監督 インタビュー映像」より

 

「あの時にとるべき態度ではなかった」というのですね。

実際に当時を生き抜いてきた高畑監督が言うと非常に説得力がありますが、そのような見方をする人はどちらかと言うと少数派なのではないでしょうか。

しかし、言われてみればそうなのです。

ネット上では、実際にそういった意見で見ていた人もいたようで「働かない清太はダメだ」と批判する声も聞かれます。

 

それと同時に、小学生や中学生なんだから大人が見守ってやるべき対象だという意見もあり、あの親戚の阿波山への批判の声も多数あります。

まあ、当時としては大人でさえも子供の面倒を見る余裕なんてのはなかったのでしょうね。

 

自分が大人になってきて感じるのは、大人って子どもだな・・・ということ。笑

 

自分の親や祖父母をみていても、自分よりも我慢する能力が欠けるているなあ、感じることは多々あります。

怒りの感情はその人の環境によって生まれるタイミングが異なったりするため、まあしょうがないのですが大人ってそんなものです。笑

 

「大人の行動」というより、どちらかというと「大人がとるべき行動」を意識してしようと心がける方が多いですよね。

 

それが戦後は崩壊した部分があるということは容易に想像できます。その状態を清太は絶えることができず、「生きるため」の最善の方法をとらなかった結果、あのような悲劇を生んでしまったというのが「火垂るの墓」の見方でもあるんです。

 

 

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結構衝撃的ではないですか?笑

私個人的には、「そういう捉え方もあるのか」と妙に納得してしまいました。笑

しかし、高畑監督は同時に清太のような捉え方はしょうがないことでもあると表現しています。

 

 

「”純粋の家庭”を築こうとする。そんなことが(あの時代に)可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。

しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。

(中略)

マイホームとか核家族とか、個室やオートバイを子どもに与えるとか、おとなもみんな清太になりたがり、自分の子どもが清太的になることを理解し認めているんじゃないんですか。

社会生活はわずらわしいことばかり、出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい、自分だけの世界に閉じこもりたい、それが現代です。

それがある程度可能なんですね。

(中略)

清太の心情は痛いほどわかるはずだと思います。

(中略)

でも結局、実のところ、類似というのはこの出発点の心情だけかもしれないんです。

現代の青少年が、私たちおとなが、心情的に清太をわかりやすいのは時代の方が逆転したせいなんです。

(中略)

もし再び時代が逆転したとしたら、果して私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。

全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。

清太になるどころか、未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか、ぼくはおそろしい気がします」

※指弾とは非難すること。
アニメージュ1988年5月号より

 

 

自分自身が戦後当時に逆行してしまったら清太のように思うのは至極当然なのではないかと語っています。

なぜなら、そのような心情を現代において我々は持っており、それが可能なのは耳朶が可能にしてくれているだけのこと、ということを言っています。

さらに、その当時に自身が行ったら、清太のような思いを抱くどころか、清太をひきとった親戚のおばさん以上に子供相手にでも非難をするような人間になってしまうことを懸念しています。

 

 

こうした思いはものすごく理解できますね。

「火垂るの墓」を見て抱いた「可哀想」と言う感情を持ち続けて優しくして上げられるかはまったく自信が持てないところです。汗

 

つまり「火垂るの墓」と言う作品は、戦後を生き抜こうとした兄妹の話であり、その兄妹は現代の我々のような社会とは隔離した場所で生活することを望み、そうした思いは時代によってはあのような悲惨な結末を生みかねないという非常に危険が伴う思いでもあるということを再認識させてくれる物語なんですね。

人は高度なコミュニケーションがとれる生物として知られています。

やはりそうしたコミュニケーションを取らない生き方と言うのは本来あるべき姿ではないのかもしれません。

非常に考えさせられる物語です。

 
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